かじめの歴史と文学と
ここでは、かじめの表記がある文学や史料にあたって、その表記を確認するとともに、できればかじめ自体の歴史なども追っていきたいと思います。
かじめが文献に現れるのは、701年の「大宝律令」の中です。
物納税である「租」の品目として、7種類の海藻が挙げられているのですが、その中で「末滑海藻」と書いてあるのがかじめだとされています。記述より推定される内容は以下の通りです。
表記 | よみ | 内容(推定) | 重量 | 重量 |
海藻 | ニギメ | わかめ | 130斤 | 78kg |
凝海藻 | コモルモハ | てんぐさ | 120斤 | 72kg |
海松 | ミル | みる | 130斤 | 78kg |
紫菜 | ムラサキノリ | あまのり | 49斤 | 29.4kg |
滑海藻 | アラメ | あらめ | 360斤 | 216kg |
海藻根 | マナカシ | めかぶ | 8斗 | 92L |
末滑海藻 | カジメ | かじめ | 1石 | 115L |
雑海藻 | 160斤 | 96kg | ||
※当時の1斤≒600g、1斗≒11.5L、1石≒115L |
以上の海藻は、一人あたりの割り当てです。けっこう多いですね。
ただ、「末滑海藻」は「粉末のアラメ」という解釈もあります。もともと混合されやすい二種なので、これがカジメであるかどうかはわかりません。
「和名類聚抄」(931〜938編)では、ここでいう「滑海藻」=「味が苦くが害はない海藻」と定義があり、「阿良米・荒米」という字が当てられ、さらに「末滑海藻」に関しては「加知女・搗布」とあり、現在漢字表記で使われる「搗布」の表記が見られます。さらにこの「搗」については、「(臼などでひいて作った)粉末」という意味だと説明があります。
ところで、漢語としての「搗布」という言葉は、中国には存在していないようで、日本で漢字を組み合わせてこう読んだようです。
「搗」という漢字は、音読みでは「トウ・ドウ」、訓読みでは「かツ(動詞)」と読みます。
意味は「つく。(穀物などを)臼でつく」「叩く。叩いて落とす」「打つ、なぐる」「こねる」「つぶす、状況を引っ掻き回す」などがあります。
古くは「かちめ」「かぢめ」という表記が多いのですが、多分「搗つ」からの派生によるものでしょう。
和名抄の記述に従うのであれば、「粉にして使う海藻」というような意味合いのものと解釈できるかもしれませんが、語源は明確になっていません。
ちなみに「め」と付く海藻は、基本的に一年草(一年でだいたい成体になる)です。
また、「粉末で使用していた」のだとして、その用途ははっきりしていません。
可能性として考えられるのは、食用・肥料のほか、糊料や漆喰などの材料としてなどでしょうか。
塩の製法が確立されていなかった古代では、海藻やその粉末は貴重な塩分摂取源だったとも言われています。
中国医学では古くから、既に甲状腺機能障害に海藻灰が有効であるとされていましたので、その知識が医師によって広められていた可能性も否定は出来ません。
中国の後漢や魏の記録には、「日本から昆布の貢納があった」とあります。また、日本から中国へ海藻が輸出されていたこともわかっています。ただし中国では海藻類を総称して「昆布」と書いていたようなので、その内容についてはよくわかりません。
さて、時代は一気に下ります。
「義経記(巻七:如意の渡にて義経を弁慶打ち奉る)」では、如意浦(富山県高岡市伏木)で「(北の方が)浦のものども、かちめといふものを潜きけるを見て」と、地域漁民が潜ってかじめを採る様子が描写されています。
また「搗布」は春の季語でもあり、いくつかの短歌や俳句に読み込まれています。
同様に「搗布刈(かじめがり)」「搗布焚(かじめたく)」も春(4月)の季語です。
北原白秋は「いつしかに 春の名残りと なりにけり 昆布干場の たんぽぽの花」という歌を残しています。三崎に旅した時に詠んだ歌でした。
一見かじめに関係はなさそうですが、実はこれ、かじめを「昆布」と誤認したものなのです(三崎の海に昆布は生息していない)。
そんなワケアリの歌でしたが、白秋はとてもこの歌を気に入り、大事にしたといわれています。
のちに北原白秋の詞を元にした「日本の笛」という歌曲(作曲:平井 康三郎)の2曲目に、「搗布とたんぽぽ」という歌があります。(歌詞は不明。ご存知の方がいらっしゃったらご報告お願いします。)同曲はCD「自ら歌う日本の笛、酒の歌
平井康三郎」(音楽之友社 OCD0508 2,913円税抜)で聞くことが出来ます。
長塚節(ながつか・たかし)は
「長濱の 搗布燒く女は 五月雨の 雨間の岡に 麥の穗を燒く」(明治39年7月)
「多珂の海の水木の浜に荒波に搗布さは寄るそをとりてたすけにせんと蜑(あま)人さわぎかじめとるかも〜
潮さゐの水木の濱に爪木たく蜑(あま)人さわぎ搗布とるかも」
(潮騒が成る水木の浜辺で、薪を燃やしている漁民達が歓声を上げてかじめを採っていることだ)
と、かじめを生活の糧とする漁民の姿を歌いこんでいます。
後者の歌碑は、日立市田楽原児童公園で見ることが出来ます。
白秋・長塚の時代はもう明治中期ですから、沃度灰生産のためのかじめ焼きが盛んであった時期とちょうど重なります。
白秋の歌は「干す」としかありませんが、焼く前の天日干しとも考えられますし、長塚節の二首は「かじめ」=「焼く」ものとして認識されていることがわかります。
かじめ焼きはどこから来たのか
かじめ豆知識