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2005年04月11日

読んでもないのに負け犬について考えてみた

どんなに美人で仕事ができても、30代以上・未婚・子ナシは「女の負け犬」なのです。

ってことらしいのだ。

「負け犬の遠吠え」(酒井純子・著)がエラく売れて、「負け犬」という言葉が変に定着しちゃってから随分経つのだが、今までこの本について興味を持ったことはなかった。
のだが、Feliceさんのサイト「MagMell」の日記で、「負け犬」とそれを取りあげたサイトの文章に関する記述を見ているうちに、色々な事を考えて、「MagMell」の掲示板に取り留めないことをつい書いてしまった。

「多くの人の心に"引っかかり"を与える」というのは、売れるモノの条件の一つだ。
ネーミングに、ネガティブな言葉・毒、つまりは「トゲ」をうまい具合に織り込めば、まさに具合のいい釣り針のようなもので、より多くの対象に強い引っ掛かりを与える事ができる。
この本は、それに大成功をおさめることができた。本人が書いた内容よりもより悪意的で煽り色の強いニュアンスで、社会にも定着した。
いつもであれば、「読んでみて書く」のだけど、私は以前から、こういう「人生モノ」「処世モノ」系の本には金を落とす気がしない。見た目のハッタリだけで、結局は自己賞賛・自己愛の産物というパターンが多く、興味が湧かないのだ。女性向けであれば特にそうで、この本についてもやっぱり定価を払う気にはなれない。2年後にブックオフの50円コーナーに山積みになってる姿がついつい目に浮んでしまう。
幸い、「負け犬」という扇情的な言葉によって、多くの人が、これを聞いて「何か考える」「何か一言書きたくなる」状態になり、検索すれば「負け犬」に関するコラムや考察、ブログのエントリーは星の数ほど出てくる。(で、結局私もそうなってるわけだ。)
その煽りの度合いは、Amazon内のこの本のページに書かれたカスタマーズレビューが、実に411件にも及んでいることで証明されているだろう。
おかげさまで、内容が大体わかるというものだ。ああありがたい。とっかかり方が横着で誠に僭越だが、あまたのレビューなどを読んで、主にその構造・論法に関して思ったことを書き連ねていく。

まず、私のように「負け犬の遠吠え」の本文(以下『原著』と記す)を読んでない人間が抑えておくべきことは
●作者の酒井純子自身が30代独身子無しであること=つまり既婚者が未婚者を見下している構造ではない、ということ。
●つまり、「負け犬」とは、あくまで著者が著者自身を定義して言う言葉であり。

この勝負、どちらかが折れないと永遠に決着がつかないであろうし、それはあまり良いことではなのではないか……と考え、私共負け犬はこの度、負けを認めることにいたしました。

と本文にあるように、あえて自分で「負け犬」宣言する事で、くだらない「くたばれ専業主婦」あたりで一気に不毛さを増した「既婚vs未婚・キャリアor主婦の優劣論争」や、価値観の押し付けから身をかわして、自分の人生を自由に楽しもう…という、実はすごくありきたりな結論に着地している(「共」という言葉で変に一般化ニュアンスを与えているのは問題かと思うが…)。
●そもそも基本的に「筆者の感じてる事を述べた辛口エッセイ」であって、社会論とか、何かに継承を鳴らすとか啓蒙するとかという重い存在ではなく、価値観を大上段に押し付けているのでもない。

というあたりだろう。

なぜ多くの人間(主に女性)が、この本(この言葉)についてそれぞれに考えてしまうのか、一言言ってやりたくなるのか。それは多分、「負け犬」の定義である「30代・独身・子無し」という条件がすべて精神的・抽象的ではなくて「現実の現象」「状態」であり、「誰もが絶対どちらかに属している」という1点にあると思う。
30歳以上か、それ以下か。
未婚か既婚か。
子供がいるかいないか。
実はこれらも、「バツイチ」「未婚シングルマザー」「子供と死別」などの、マージナルな層を若干含んでいるのだが、「現在の状況」だけで考えてみると、必ずどちらかに当てはまる。
「金持ち」「幸せ」「充実」というような、これまで多用された言葉はどうしても抽象的で、「自分はどっちでもないかな」「まあフツーじゃないかな」という「中間層(つまり、その本やタイトルに対してハナから関心を持たない客層)」を生じさせていた。「負け犬定義」にはその「あいだ」が無い。
そこで、「私も負け犬?」「じゃあ私って勝ち犬?そう言われてもなぁ…」のどちらかになり、両者心の中にひっかかりが生まれる。これはマーケティング面では非常に優秀な戦略といえるのではないか。
#ところで、私のような「30代既婚子無し」はどっちに分類されるのだろう?社会的には「より深刻な役立たず」ではあるだろうけど。

先ほども書いたが、要は、他人や硬直した社会通念からあれこれお節介を言われてイヤな思いをする前に、「ハイハイ私は負け犬なんでございますよ、だからそんなにいじめないで、負け犬なりに楽しく生きていきますから構わないでくださいね」と「私は」華麗にスルーしますよ、という宣言である。
「自虐」の有効活用なわけだが、むしろ「自虐」という言葉より、(すごくレンジの狭い比喩でナンだが)、装甲で言えばERA(爆発反応装甲)のようなものだなあ、と最初に思った。
装甲の外側に、計算された量の爆薬ユニットを付けておき、敵からの攻撃を受けたときに爆発するようにしておくものだ。ものすごくオオザッパに言えば、その「適度な爆発」によって、主装甲板や戦車本体へのダメージやトラブルを最小限に抑えるという構造を持つ。
「私は負け犬」という一見自虐的な文が、リアクティブアーマーの働きをしているのではないか、と思ったのだ。

この本の最大の罪は、明解な定義のインパクトの強さにより、結局は「筆者の生き方」を示していた筈なのに、「負け犬」という言葉が一人歩きして、「筆者の巻き添えを食らって、30代独身子無しが負け犬レッテル貼りをされ、しかもそれがかなり人口に膾炙してしまった。ヘタすりゃ親類のガキまで使ってる」という大迷惑にある。
いみじくも、Wikipediaの「爆発反応装甲」の項にはこんなことも書き添えられている。

あまり知られていないが、爆発反応装甲は構造上、作動時に大量の金属破片を周囲に撒き散らすので随伴歩兵が全滅するというあまり嬉しくない特性を持つ。そのため、西側ではあまり用いられていない。

…そこまで似んでも。

さて、つまりはこの本は「現状の社会にちょっと皮肉をかませつつ、一見敗北宣言に見せかけた、自分謳歌の勝利宣言」という性格を持っているわけだ。境遇はかなり違うが、なんか似たような考え方をする人物に一人心当たりがある。
それは魯迅の代表作・「阿Q正伝」の主人公・阿Qさんの「精神的勝利法」だ。
最期に読んでから随分時間が経っているのでちょっと自信が無かったもんだから、本棚から出して読んでみた。
皆にバカにされ、常に虐待されながらもプライドの高い阿Qの実践する精神的勝利法とは、どんなに殴られても
「倅にやられたようなものだ、近頃世の中がへんてこで…」
と思うようにして、精神の満足を得るというもの。ここは「負け犬」本論にはあまり関わりが無いが、以下の部分なんかは妙にマッチしていて興味深い。

(阿Qをからかう遊び人連中)

「阿Q、これは倅が親を殴るんじゃないぞ。人間様が畜生を殴るんだぞ。自分で言ってみろ。人間様が畜生を殴るんだと。」

阿Qは、両手で辮髪の根元をおさえ、首をねじ曲げる。

虫けらを殴るんさ。これでいいだろ?---おいら、虫けらさ---もう放してくれ!

たとい虫けらであろうと、遊び人たちは放してくれない。相変わらず近くの土塀に五、六回コツンコツンやり、これで阿Qも参ったろうと思って、満足して意気揚揚と引きあげる。ところが阿Qのほうも、ものの十秒とたたずに、やはり満足して意気揚揚と引き上げる。われこそ自分を軽蔑できる第一人者なりとかれは考えるのだ。「自分を軽蔑できる」だけを除けば、残るは「第一人者」だ。

以上、岩波文庫版「阿Q正伝・狂人日記」(竹内好 訳)より

特に後半を読むと、筆者の論法に対して感じる、微妙な「イヤらしさ」の源に通じるものがなんとなく見えてくる。
「負け犬の遠吠え」の具体的な言葉として、もっともふさわしいセリフはどんなものだろうか。それは多分「今回は引き下がるけど、本当は自分は負けてないんだ!」という、池乃めだか大先生の決めギャグを思わせるソレだと思う。負けを認められない人間こそが最も負け犬臭いのだ。
筆者はそこで「私は少なくとも、負けを認めることができる潔い人間」という保険を張っている。捨て身に見せかけて実はそれ自体が保険。それはあんまり潔くない。
しかも、負け犬の定義の枕に「どんなに美人で仕事ができても」と付けたり、本編で取り上げる「負け犬」の多くが「学歴もそれなりにあって仕事ができて自分の外見にも金かけることができる」「優雅な都会のキャリアウーマン」であったり…ということを考えると、結局はこれって「自分は小奇麗で小金もあって仕事もできる人間」「それでいて潔さもある、深い考え方を持つ人間」という優越感・自己愛の産物なんじゃないか?と思ってしまうのだ。だからなんだか、単純に「自虐」と呼ぶには気が進まない。
で、そこで「これってエッセイなんだよな」と思い出す。自分語りに終始するのも当然なのだ。
自己愛と自分語りのついでで、赤の他人から気軽に「負け犬」呼ばわりされるハメになった人間には、いよいよもって大迷惑の度合いが募るわけだが。

およそ品のある人なら人前では使わないであろう「負け犬」という言葉。その響きの汚さとインパクト、そしてマスコミや出版社などが(おそらくは意図的に)「該当者全般に一般化した使い方」で面白おかしく煽るために誤用し、一人歩きして定着したわけだが、これもまた
「あらゆる場面が、勝ちか負けか、で分ければ大抵はどちらかに属する」ものだ。
「負け」という言葉を使った段階で「勝ち」が、「勝ち」ということを思った時点で「では何が負けか」という概念が同時に生まれる。外見・財政・環境・仕事…全てがそうだ。
「Aよりも3cm背が高い分、俺が勝ち」と思った時点で、「でも俺より5cm背が高いBには負け」ということになる。住まいがアパートかマンションか一戸建てか、年収がどうだとか、乗ってる車、服やバッグ、果ては子供の成績やら進学先やら。きりが無い。
意識し始めた瞬間に、結局「絶対の勝者」にはなれないことが決定される。
こういう「差の意識」から開放されることが仏教思想の地平の一つなのだが、現実の世界はそうもいかない。
考えなくても、周りが勝手に、ありがた迷惑なランク付けやレッテル貼りをしてくれる。「自分は自分、勝ち負けなんか気にしない」と思った時点で、「勝ち負けを気にしてる連中と自分」という優劣構造・そして優越感が生まれている。精神的に本当に自由になるということは、実に難しい。不可能なのかもしれない。
「『負け犬』宣言する事で少しだけ自由になるくらいしかやりようのない、社会の不自由さ」をも、筆者は深刻な書き方でなく示しているのだろう。

それだけ色々な意味がこめられたであろう「負け犬」だが、今や闊歩しまくっているもんで、例えば未婚の人が
「私もそろそろ負け犬突入しちゃう~」「負け犬人生謳歌してますから」
なんて言い方をする。
もっともこの場合は、「作者の自分語りに付き合ってそんな言葉使いなさんな」で笑って話もできるけれども、子持ち既婚者の一部が「じゃあ私は勝ち犬」と短絡的に考えて、他人を平気で「負け犬」呼ばわりするのは実にヒく。
多くの既婚女性は、そんなことを機にする暇などないほど忙しく、むしろ「勝ち犬とか言われても…」と戸惑う人が多いんだけれども、なんだかそういう無神経な層、がジワジワと増えてきてるような気がする。そこが気味悪く、作者の意図はどうあれ、「罪」の一つには違いない。
「負け」という言葉を使うことで、「勝ち」をも示し、「勝ち」の概念も同時に一人歩きしたというべきか。
ことに「言わないけれど書きはする」、Webで見る既婚者の文の隅っこからちょこっと滲み出しちゃってるような、そんな場面にひっかかりを覚えることがあるのだが、これについてはFeliceさんの掲示板のレスがかなり明解で、膝を打つ思いだった。

独身同士で「負け犬だよねー」と言うことはあっても、既婚者がわざわざ独身者に「あなたは負け犬なんだねー」とは言わないでしょう。

相当親しくないかぎり、それは立ち入ったこととして会話に出てこないのが普通だと思います。

それだけに、ウェブでは一部の方の本音が読めて面白く、今回は

「独身という生き方が目障りだと思う既婚者って、確かにいるんだなあ」

とわかりました。

ところで、原著について検索していると、「負け犬にならないための10カ条」というのがよく出て来るのだが、正直あまり面白くない。
「『~っすよ』と言わない」「ナチュラルストッキングをはく」あたりが「読者にドキッとしてもらうポイント」なんだろうけども、どうせならもっと細かいポイントを攻めてもらわんと、ドキッともクスリともできない。
これは逆に「こうすれば男性に好かれる・結婚できる」というマニュアルでもある。
「この程度の浅いことで男はコロッと行く」という意味で、男の単純さをバカにしてるところを笑うべきなのだろうけど、項目も浅くてなあ。そういうところで「ピリッとした深み」を披露するのがエッセイの醍醐味だと思うんだが。

結局は、作者自身の生き方語りと心得て、誤用されているのを間に受けて憤るのも自虐するのも、増長するのもアホらしーですよ、ってとこなのかな。これまたものすごく陳腐だけども。
Amazonの大量のレビュー(それだけで軽く一冊が編めるほどの量だ)の内容はそれぞれで、「この本をキッカケに、これだけの人間が自分の考えとか生き方に思いを馳せ、考えをまとめて賛否両論を表現するに至った」ことはとても興味深い。女性だけでなく男性のコメントも多いので、読んでいるうちに「本編よりも読みごたえがあって面白いんじゃなかろーか」とすら思う。いやほんとに。

投稿者 zerodama : 2005年04月11日 13:34

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