2005年07月20日

教科書微エロ物件

高校の英語の教科書(どこのだったか忘れたが)に、アースキン・コールドウェルの「Strawberry season」という短編が採用されていた。
教科書には珍しく、思春期の少年のほのかな恋情を描いた短編で、ちょっとだけエロかったことが記憶に残っている。でも、詳しいシーンは忘れてしまった。

・農園で苺摘みをする少年の間では、「気になる女の子の胸元に苺を入れ、それを叩いて潰す」という、ちょっとエロいイタズラが流行っていた。
・主人公には、Fannyという憧れの女の子がいた。
・二人で作業をしている時、偶然だか、ラブコメ的なハプニングだかで、fannyの胸元に苺が入り、それを叩いて潰してしまう。
・その苺を取ってやる

みたいな話だったと思う(何もかもうろ覚えで申し訳ない)。なんか全体的に切ない感じの話だった。
特に3・4番目のあたりの描写が、何かこうぼかしたような感じで、逆に「これはもっとエロい行為の隠喩なのではないか?」と深読みを誘う話だった。
「潰れた苺をつまむ」なんて、いかにもなイメージじゃありませんかお客さん。
私も、「青カンかそれに準ずる行為をぼかして描写してるんじゃないか」と思ったのだが真相はどうなんだろう。いずれにせよ、教科書に載せるにはちょっと刺激的な内容で、大変よろしかった。

今も教科書に採択されているのかと思い検索すると、
・「女の子に苺でいたずらする描写がセクハラにあたるのではないか」と問題になり、最近は採択されていない
という情報があったり、また、採択する上で改作が加えられたりしているようだ。

1994年「ことばと文化:改作の問題-E. Caldwellの"The Strawberry Season"をめぐって-」というフェミニズム言語学関係の論文で、

高校用英語科教科書78冊を対象に、文学作品の収録状況を調査したところ、最も採録頻度の高い散文作品はE.Caldwellの"The Strawberry Season"であり、計5冊の教科書に現れていることが分かった。しかしながら、それらはすべて、何らかの改作が施されていたのである。ここでは、それぞれの教科書に収録された改作作品を,書き換え・削除・加筆という3つの観点から,原作と比較し,改作作品の収録をめぐる問題点を指摘する。

という内容のものがあるらしいが詳細は不明。

もう一度教科書、できれば原文にあたってみたいのだが、相方から英語の先生に「Strawberry Seasonについて知りたいんですが、あれって結局やったんでしょうかね?」と聞いてもらうわけにも行かず、かといって買うほどでもなし。
久しぶりに図書館でも行ってみようかな…

教科書ではないが、教室のエロ物件としては、意外な盲点として「学級文庫」がある。
中2の時、学校中の空き教室を見つけて吹奏楽のパート練習をしたのだが、よく使っていた3年生の教室の学級文庫に、「凄ノ王伝説(永井豪の「凄ノ王」のノベライズ版。著者は永井泰宇)」の、こともあろうに1巻が置いてあった。誰だよ持ってきたの。
永井泰宇(永井豪の実兄)の小説を読んだ事がある方はご存知だろうが、エロシーンの描写が妙ーーーーーにねちっこい人なのである。
しかも「凄ノ王」の序盤といえば、少年マガジン最初にして最大インパクトのレ○プシーンである、「雪代さんのアレ」が載っているのだった。いやーたまげたたまげた。
学級文庫に(学習系以外の)マンガの持込はタブーだったが、一々教師が目を通す筈もなく、そういう場面がある小説というのは穴だったのだ。

今思えばあの「凄ノ王伝説」、クラスの男子に回し読みされまくったんだろうな~。

高校の図書館で、現代ヨーロッパ小説選集の中で、ナボコフの「ロリータ」だけが回転率が激しく、一冊だけ傷みが早かったのも同じ理由なのだろう。もっとも多くの男子が「読んでガッカリ」なパターンだったのだろうけど。

投稿者 zerodama : 15:49 | コメント (3) | トラックバック

2005年07月14日

まんが日本昔ばなし:きっつい話

まだまだトラウマ話が続いてしまうっす。

まんが日本昔ばなしの怖かった話、トラウマになった話を色々調べていて、初めて知った話もたくさんあった。
今日は、「人形山」の動画を見てみた。

越後の村に、父を早くに無くした娘二人が母と細々と暮らしていた。その母も病気になってしまう。
幼い身で一生懸命に働きながら、信心深い母親に倣って、権現様への信仰を欠かすことのない感心な娘たちだった。母が元気になりますように、と一心に祈る姉妹の心に感心した権現様は、夢に現れて、病気を癒す温泉の場所を告げる。
夜中に同時に目を覚ました姉妹は、同じ夢を見たことを話し、権現様のお告げと確信する。山を越えてその場所に行ってみると、果たして夢で見たのと同じ温泉が湧いていた。
次の日から姉妹は、雨の日も風の日も毎日、母親を担いで温泉に足を運び、湯に浸からせたところ、病状は次第に快方に向かっていった。
母もすっかり元気に戻った秋の日、畑に実った作物をお供えに持ち、権現様へお礼参りをしようと思い、山へ向かった。
しかし権現様の山は女人禁制、上り口にその旨を示す石柱があったが、二人には読めず、どんどんと先に進み、お参りを終えて帰途に着くと、にわかに天が掻き曇り、まだ秋なのに吹雪が襲い、凍えて力尽きる姉妹。
家では心配しながら二人を待つ母。しかし日が過ぎて、冬を越して新しい春がきても、二人が帰ってくることはなかった…母親がふと向こうを見やると、権現様のお山の中腹に、二人の子供が手を繋いでいるような形の残雪が見えた。
そう、まるであの姉妹のような…
その残雪の形から、いつしか人はこの山を「人形山」と呼ぶようになったそうな…


って。
「なったそうな」じゃねえ~~~~!!
権現様ひどすぎるだろコレ~~~!!
なるほどこれは「救われない話ランキング」の上位に上がるわけだわなあ。
山に残る雪が、地形の関係で決まった形に溶け残る(「雪形」)のは、割とどこでもエピソードとかジンクスとかがついていて、まあこれも一つの起源エピソードってことなんだろうけども。
例えば「形や見え方によって豊作を占う」富士山の鳥とか、最近知ったのだけど鳥海山の種まきじいさん(これは一回知るとけっこう見事な形をしている。「じいさんがくっきり見えるようになったら田植えのタイミング」と言われているらしい。形と時期がベストマッチしている例だろう)とかの類。しかしだからってこんな話にしなくても!
「『いいことをしたら報われる』というソーシャルな因果応報よりも、神とか自然の掟が優位にある」という精神風土をシビアに確認させる民話の、もっともやりきれなさMAXなエピソードの一つだろう。
この姉妹は、知らずに禁を破ってしまったという事以外は何も悪いことをしていない、感心な娘たちなのにこの結末がツラい。日本昔ばなしでも1,2を争う可愛い絵柄なのもまたツラさを誘う。

さらにもう一つ。「キジも鳴かずば」に似ているようで、着地点が全然違うパターンの物語。

「赤いまんま」
貧乏な家族と金持ちの家族が、隣り合わせて住んでいた。ある日、金持ちの家から少しばかりではあるが小豆が盗まれた。
日頃から貧乏な家を見下し、よく思っていなかった金持ちは、「隣の貧乏人が盗んだに違いない」と思い込み、決め付ける。
貧乏人の家の子供に、昨夜何を食べたか聞いてみると、「赤いまんまを食べたよ」と答える。わが意を得たりとばかりに、貧乏一家の父親を捕まえて、公衆の面前に引き出して尋問する。身に覚えがないことを必死に訴えるが、誰も耳を貸さない。
「お前のところの子供が、貧乏なのに『赤いまんまを食べた』と言ったのが動かぬ証拠。盗んでいないというなら証拠を出してみよ」と勝ち誇る金持ち。
潔白を証明する方法は一つしかなかった。
貧乏父さんはやにわに手元にあったを持ち、子供の腹につき立て、さらにそのまま切り裂いた。子供の胃袋に手を突っ込んで何かを取り出して掲げる。
それは、米でも小豆でもない、小さな赤蛙だった。
一同は言葉を失う。
本当に貧しいこの一家は、川で捕まえた蛙くらいしか食べるものがなかった。それを子供が「赤まんま」と呼んでいただけなのだ…

がーーーーーー!
フォローー不可能ーーー!
理不尽さにおいては「キジも鳴かずば」を軽々と越えちゃっている。子供のころにこれ見ちゃったらそらショックだわ。
こんな話を観た後に、何食わぬ顔で
「いいないいな、にんげんっていいな」
と歌われてもだ。

よかねーーーよ!
と薄ら寒いばかりだよ全く。

「キジも鳴かずば」では、父親は微量ではあるが「盗みという罪を犯した」という事実はある(だからって生き埋めにされるような罪では全然ないのだが)。
この話の貧乏父さんに至っては、何も悪いことをしていないのだ。この差は大きい。
何がトラウマって、いきなり子供の腹を裂いちゃう展開(しかも鎌ってのが…)で、「そこまでやるか」感がこみ上げるが、昔の日本でこれだけの貧富の差があったということは身分の差もあったと考えるのが普通で、この状況では白でも黒にされてしまう。口で「盗んでいない」といくら主張しても通らないだろう。証拠を示せなければ即死刑(or人柱)になることは誰よりも貧乏父さんが分かっていたのだ。
水呑百姓の悲惨な現実、それにもまして、貧窮している人が身近にいながら、見下すだけで助けもせず、偏見で追い詰めるだけの金持ちの心の貧しさ、汚さが、読後感をより重苦しいものにしている。

これはあくまで一人合点だが、スタッフリストを眺めていて、監修に川内康範の名前を見つけたとき、この番組が上記のようなネガティブなストーリーをあえて子供に真正面からぶつけている理由がなんとなく飲み込めたような気がした。
「月光仮面」「レインボーマン」「コンドールマン」などを手がけた巨魁である。
これらの作品の中で、同氏は徹底して「人の心の中にある悪・汚いもの」と、「それを背負いつつも正義を追及するヒーロー」を描いた。「コンドールマン」に至っては、悪のモンスター軍団について

どこの どこの どこの誰から頼まれた
いのちを賭ける甲斐もない それほど汚れたニッポンの
人の心が生み出した

と断言してしまっているほどだ(しかもOPで)。

金持ちの狭量さ・残酷さは、別に金を持っているからではないだろう。
自作農は小作農に、小作農は乞食に、容姿に恵まれた者はそうでない者に…相対する時に、無意識のうちに金持ちと同じような心になってしまう。また、自分よりも何かで劣った者を探し出して安心しようとする。それは現状から受けるストレスを緩和しようとする、自然で悲しい人の心の性でもある(そして「いじめ」や「ハラスメント」の根源でもある)。
「こういうものが誰の中にもある」
とまでは、昔ばなしは示していない。しかし、今は「単なるひでえ話」でかまわないから、「そういう心」の存在を見せるだけでも意味がある。心の片隅のどこかに残って、時折こっそりワクチンみたいな仕事をしてくれたなら最高…そんな意図があってくれたならいいな、と思う。少なくともこの話を見たり聞いたりした人は、20年以上もずっと心の中に常駐していて、アンインストールも出来ないのだから。
(ま、単に「怖がらせたろ」ってだけなのかもしれんが)

「赤いまんま」の民話を検索してみると、地方によって、「赤蛙」オチ以外にも、「赤い川エビ」「赤タデ」などのバリエーションがある模様。

投稿者 zerodama : 22:50 | コメント (0) | トラックバック

2005年07月13日

ぼうや良い子だと口では言いつつ恐怖劇場

なんか堰を切ったように自分のトラウマ体験ばかり書きまくってるのだが。
「まんが日本昔ばなし」で、恐怖や非情のトラウマを植え付けられた人の数は、やっぱりこれも長く続いた番組ゆえに相当な被害者数にのぼるようだ。
私の脳裏に刻まれたのは、非常にメジャーな作品で恐縮だが、やっぱこれ。

*「耳なし芳一」

同世代は、この「まんが日本昔ばなし」で「耳なし芳一」ファーストコンタクトを遂げてしまった向きが多いはず。あの落武者がものすごく怖かった。
お坊さんの話というと、一休さんのような「ウッカリチャッカリ系」という先入観があったため、耳がブチブチともがれるシーンでは動けなくなるほどショックだった。

松江市の人へ。公園に芳一像を建てちゃうのはどーかと思うのですが。

*「キジも鳴かずば」

これも同番組トラウマとして必ず上がる作品。
貧しい親子がいて、単に欲しがったか飢えかかったか病気になったか忘れたが、「赤いまんまが食べたい」という娘のために、父が金持ちの家に忍び込み、少しの米と小豆を盗み出し、それで小豆ご飯を作って食べさせる。父は口止めするが、娘がマリつき歌の中に「赤まんま食べた」というフレーズを入れて歌っていたのを聞きとがめられ、盗みがばれて父が捕らえられる。
捕らえられた父は、橋を立てるときの人柱として生き埋めになる(このシーンがトラウマ)。
娘は、失言が父を殺してしまったことで自分を責め、一切口を利かなくなる。村人からは「ショックで唖になり、気もおかしくなった」娘として扱われる。
それから時が過ぎ、荒野に一人立つ猟師がいる。身を隠していたキジが声を上げたために、見つけられて撃たれる。そこに例の娘が現れ撃たれたキジを抱きかかえ、「キジも鳴かずば撃たれまいに…」と呟き、吹きすさぶ風の中、いずこともなく去っていく…

このラストシーンの娘の絵が、もう「虚無」としかいいようのない表情で、忘れることができん。
「ベロ出しチョンマ」にも通じる「救われない話」の代表格だろう。

振り返ってみると、ある程度大きくなると見なくなる番組ではあるのだが、こーいうプログラムって必要だよなと改めて思う。時に理不尽な民話の中に、色々学んだ気がする。

同番組では、ごく初期のエンディングに出てきた「グルッパー」もなんか得体が知れなくてそこはかとなく怖かった。(今思うと、「ひみつのアッコちゃん」に似たようなキャラがいなかったっけ?)
あとは、日本昔ばなしほど長く続かなかったが、「世界昔ばなし」の「青ひげ」も相当ヤバかった。
同番組は、宮城まり子の語りが変に不気味だったこともあるのだが…
エンディングの「好き?嫌い?好き?嫌い? 天使がとおる 天使がとおる」という歌が妙に印象に残っている。

関連リンク
まんが日本昔ばなし資料室
  スタッフリスト、全話放映リストや製作エピソードなど。(三好和彦氏のサイト「狢工房」のコンテンツ)
  高橋良輔や出崎統など、怱々たるメンバーがスタッフ参加している事を再確認。
  いがらしみきお演出・文芸の回まであったとは…

まんが日本昔ばなし
  けっこうな数の動画が見れる。他に音源や過去スレリストなど。
  昔ばなし関連のスレは、絵本やアニメ板のみならずオカルト関連の板にも広がっている(むしろそっちのが多い。やっぱりな。)ので、まとめてくれているのは大助かり。
  「キジも鳴かずば」のリメイク作品「もの言わぬお菊」が見れる。

この子にすごい武器を与えてくれ~(顔文字板過去スレ)
  トラウマ探索に疲れたらここで一服w
  OPでおなじみのあの子がとんでもないことに。

ところで、この番組のOPの替え歌、日本中のクソガキが歌ったと思うのだが、地方や学校によって色々バリエーションがあるんだなあ。
うちのクラスでは
「ぼうや 良い子だ金出しな 今なら殺しはしないから~」
だった。

投稿者 zerodama : 15:50 | コメント (4) | トラックバック

トラウマ絵本その2

昨日、「ねないこ だれだ」についてのエントリーやコメントレスを書きつつ、こうしたトラウマ物件が恐怖を醸し出すパターンに、「身近なシチュエーションやアイテムの登場」が大きな役割を果たすのではないだろうか、と思い至った。

大きなモチモチの木が庭にある家はそうそうないが、「おしいれのぼうけん」に出てくる押入れや、板の木目が一つもない家というのはまずない。そうしたものを使う事で、本の中の怖い話が「今そこにあっても不思議じゃない恐怖」に昇格する。
例えば、学級文庫で見た「水木しげるの妖怪事典」では、私の中では「あかなめ」がダントツ恐怖だった。
妖怪の中ではかなり無害な方(桶のアカをなめるだけ)なのだが、浴室というシチュエーションがあまりに身近すぎて、特に洗髪しているときに、「髪をすすいでふと振り返ると、そこにあかなめがいたらどうしよう」という妄想を(よせばいいのに)働かせてしまい、髪を洗うのがなんとも怖かった。

「ねないこ だれだ」の冒頭は、「とけいがなります ぼーん ぼーん」。
せなけいこ独特の貼り絵で、柱時計が描かれた一枚絵。子供の意識がぐっと引き込まれる一瞬だが、思えば「柱時計」に馴染みのある小さい子って、今どれほどいるのだろう?
私と両親が寝ていた部屋には、やや小ぶりの、手巻きの振り子時計があって、本当に「ぼーん ぼーん」と鳴っていた。まさしくあの時計と同じタイプだ。
時計がかつては高級品だったということ、20代くらいの人でも実感できないかもしれない。今じゃ100均でいっちょまえな大きさの掛け時計が買えるし、「なんで老舗の宝石屋が時計を扱ってるのか」謎に思う人も多いだろう。
父と母の結婚祝だか、家の新築祝だかにもらったもので、当時掛け時計はけっこう高価なものだった。職場とか仲人レベルの贈答最適品みたいな扱いだったんじゃないかな。
祖母の家の今の時計もチクタクボンボンなヤツで、納戸にはさらに古くて大きな振り子時計がしまってあった。
今でも振り子つきの掛け時計や置時計はあるが、たいてい時計とは別に振り子用の電池が入っていて、私たちが結婚祝にもらったものは、1時間ごとに音を鳴らすか鳴らさないかを設定で選べて、夜9時以降は鳴らないようにできている。昔の振り子時計は、普段でもチクタク音がけっこうするし、夜中の2時とか3時にも律儀に鳴るので、それで寝入りばなをジャマされた事もよくあった。

しかし、あの絵本の1ページ目が
「とけいがなります ぴぴっ ぴぴっ」とか「とけいがなります りーんりーん」
では全く締まらない。大体あの音は時報であって、アラームではないのだ。
まさにあの「ぼーんぼーん」時計の下で暮らした私は、「おばけなんていない」と分かってた年頃にもかかわらず、「ねないこ だれだ」のおかげで、8時はともかく9時になると「あ、やべ」という心持になったのだった。
このように、アイテムや状況の時代性と絵本の味わいの濃さには多少関係があると思う。
「モチモチの木」のインパクトも、家のトイレが「室内水洗」しか知らない子供と、ばあちゃんちで10年前まで現役だった「外の総木造ボットン便所」をしばしば使用せざるを得なかった私のような子供とでは、恐怖の度合いが違っていたようだった。
とはいえ、「ぼーんぼーん」の時計になじみが薄い筈の今の幼児にも、「ねないこだれだ」の神通力は変わらず効きまくっているらしい。トラウマロングラン絵本のロングランたる実力を感じずにはいられない。

「ねないこ だれだ」の実力を支える一つに、「リズミカルで子供にも覚えやすい文章」もあるだろう。
「ふくろうに みみずく/それとも どろぼう/いえいえ よるは/おばけの じかん」
と、リズムがはっきりしていて言葉が平易なので、覚えたくなくても覚えてしまう。子供にとってはここが曲者で、時計の音を聞いたり文字盤を見たりして、「夜だ」と意識した瞬間に、頭の中で鮮烈に物語の再生が始まり、最後の「おばけのせかいへ とんでいけ」の絵が脳に焼きつく。
そう、「思い出したくないのに思い出してしまう」「考えなければいいのに勝手に脳が再生する」、これこそがトラウマなのだ。
やはり「ねないこ だれだ」こそが、「こどもがはじめてであうトラウマ」であり、なおかつ、「トラウマによって促される行動の行き着く先が『就寝』という教育的な行為である」点が、ロングライフの秘密なのかもしれない。

投稿者 zerodama : 14:51 | コメント (0) | トラックバック

2005年07月12日

当時はこんなもんでもそれなりのステータスだったのよ

mixiにて、きたかZさんに誘っていただき、氏の主宰する「mixi出張版 なつかし同盟」コミュニティに参加。
アンケートの「思い出のゲーム」というお題に早速答えたのだが、その内容をこちらにも転載してみる。

小学生の時、クリスマスプレゼントに買ってもらった、故・タカトクトイスの「ゲームロボット九」をご存知の方がいらっしゃるかどうかヒジョーに不安なのですが、おずおずと出しちゃいます。
http://homepage3.nifty.com/lsigame/lsigame/robot9/robot9.htm
購入に積極的だったのが私なのか親のほうだったのかもうハッキリとは覚えていません(おそらく、「作曲メモリー機能」(今となってはあまりにもチャチですが)に私が心引かれたのだと思います)が、女児っぽくないゲームです。
当時まだ「LSI」が最先端技術の華々しい響きを振りまいていた頃で、値段はわりとしたかもしれません。
9つのボタンを駆使して9つのゲームができるというのが売り文句でした。
光るボタンを追いかけて押す「もぐら叩き」もありました。ボタンが異様に硬いため、けっこうシビアなものがありました。
そして、効果音やエラー音、ファンファーレの音量がバカでかく、調節もできないため、夜になると思い切り遊べませんでした;
上記リンクでは、ファンファーレまで聞けて感涙しました。

これは、私ではないのですが、ダンナが小さいころ従兄の家で見たというボードゲーム(もう電気すら無関係…)をお一つ。
「木枯し紋次郎ゲーム」
http://www.remus.dti.ne.jp/~tshioiri/baka4_1.html
ギャンブルならば「人生ゲーム」にもありましたが、「賭場」に変わっただけでこのアダルトさ。「闇討ちコーナー」ってのもダークです。
一番のインパクトは、何かイベントが起こった際に回す「人情回転盤(すでに名前がすごい)」に、基本的に「渡世の義理でござんす(参加)」「あっしにゃあ関わりあいのないことでござんす(無視)」の二種類しかないことでしょう。

「ゲームロボット九(「9」でも「ナイン」でもないあたりが今見ると絶妙だ)」のオルガン・作曲機能は、結局半音が出ないためにほとんど実用には耐えなかったのだが、まあけっこう遊べたと思う。小さい子が家にきたときなどは、記憶・推理系のゲームは難しくても、モグラ叩きならできたし。

「木枯し紋次郎ゲーム」については、最初話を聞いたときに大笑いしたのだが、こうして現物の写真を見れて感動。インターネットってすばらしい…
「人情回転盤」は、中央部にある写真の、紋次郎の刀が指しているところを見て判定するらしい。超原始的だが、それゆえに「人生ゲーム」のルーレットと違って針の部分がヘタらないのがナイス。へたるまでやりこむ子供が当時いたかどうかは謎だが。
個人的には、「1回休む」イベントとして「ようじを作る」というのがツボだ。
野中英次の「ドリーム職人」を思い出した。

投稿者 zerodama : 23:55 | コメント (0) | トラックバック