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2005年04月04日

真夜中の弥次さん喜多さん

映画「真夜中の弥次さん喜多さん」は、喜多さん(中村七之助)の「オヤジの晴れ舞台直前に大暴れ」の一件で、予想以上の宣伝効果を生じてしまい、本来あまり取り上げられなさそうな朝のワイドショー時間帯にも何度となく登場してしまったのだった。
登場したのを見たら、「金髪でマゲ」の七之助があまりにも喜多さんそのものでぶったまげたのだった。
んで、コメンテーターが訳知り顔に
「今回の映画では、弥次さん喜多さんがなんと同性愛者だったり、という驚きのアレンジ」とか言ってるのを聞いて、もう呆れ返ってしまったのだった。


あのー……その設定は、原作そのままデスカラ……


「弥次喜多」といえば、一休さんとかフリテンくんレベルのずっこけ珍道中という認識がほとんどなのかもしれないが、それはよっぽど低学年向けのリライト版の内容であって、喜多さん(原作では「北さん」がスタンダード)は、男やもめの弥次さんのところに居候している、元男娼あがりという設定。
旅に出るのも家賃を踏み倒してのことで、行く先々で宿に泊まるわけだけども、当時の宿場には、「飯盛り女」と呼ばれる娼婦(厨房係という名目で雇われていて、実際に給仕にも当たる)が宿ごとにいるわけなので、つまりは泊まるたびに酒とご当地の肴と女を食い歩く、という旅なのだ。
「売春ツァー」と呼べなくもない(むしろそのもの)が、当時の旅はそんなもんだったらしい。ちょっと見栄えのいい女を見ると、弥次さんやら馬子やらがすぐに「あー、ぶっちめたい(レイープしたい、というような意味)」と呟く。性風俗が実におおらかだった時代なのだ。
北さんは弥次さんとデキてるのだが、宿宿でそれぞれに女を買ったりコナかけたりする描写もあるので、ホモセクシャルというよりは、もっとおおらかな形のバイセクシャルと言っていい。
それでも弥次さんにヤキモチを焼くようなシーンもある。夜に弥次さんの部屋に来るように手付を交わした飯盛り女に、北さんが「弥次さんは病気持ちだぜ」とウソを吹き込んで袖にさせる、なんて場面では、なかなか北さんがオトメで可愛い。
このシーンの前では、北さんが水風呂の底を踏み抜いてしまう一騒動があって、弁償として二朱を払わされるのだが、それに対して弥次さんが

「考えようによっちゃ、二朱でお釜を抜けるなんて安いもんだ。芳町の男娼街で一人買ったら、二朱ぐらいじゃすまねえもんな」

とシャレのめす場面があったり…まあこんな風に何を見ても何がおこってもすぐにチ●コだマ●●だと見立てては笑い飛ばす、そんな作品だ。中学生の頃、原作にかなり忠実なダイジェスト版を読んで度肝を抜かれたものだが、反面、主人公の二人や馬子や籠かきといった連中に至るまで、狂歌や連句・果ては狂詩などをサラサラと読んでしまう辺りに、徘徊文化の膾炙が垣間見えたりして面白い。

まあいずれにしろ、弥次さん北さんが恋人=斬新なアレンジ、なんてカメラの前で言っちゃうのは実に恥ずかしい話だねえ、ということで。

投稿者 zerodama : 2005年04月04日 20:32

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